「名古屋系」その謎を紐解く、オールドスクール名古屋系ヒストリー

90年代前半ヴィジュアル系黄金時代。Silver-Rose黒夢の全国進出、それに続く名古屋バンドの活躍、それを後押しする円盤屋の存在、中京圏V系インディーズシーンは異常な盛り上がりを見せ、一つの大きなうねりとなる。そのムーブメントの渦中にいたバンドは、当時の音楽メディアなどにより"名古屋系バンド"と称されるようになった。名古屋系はヴィジュアル系という言葉と同様、ムーブメントを指す言葉であり、音楽ジャンルではない。しかし、名古屋シーン出身のバンドという意味合いに近かった名古屋系という言葉は、90年代後半に黒夢/Laputa/ROUAGE/FANATIC◇CRISIS/Merry Go Roundなどが作り上げた伝統様式を受け継ぐkein/Lamielといった名古屋系第二次世代が登場したことにより、特徴が明確化され音楽性を表す言葉として使われるようになる。

その名古屋系第二次世代が継承した伝統、オールドスクール名古屋系スタイルとは一体何なのか?謎を紐解く鍵は名古屋系最重要人物の一人、清春のインタビューでの発言にある。「D'ERLANGER、ZI:KILLのコピーのような...そんなバンドが名古屋にはたくさんいた。そういうのじゃなくて、アサイラムとかZOAとかガスタンクみたいなバンドがやりたかった。シアトリカルでハードでダークなバンドがやりたかった。」「当時多かった英語とかのいかにもなバンド名は付けたくなかった。メイクしてニコニコして、お客さんに媚びているようなのとは全く別のものがやりたかったんだ。」「その当時は僕らしかそんなバンドいなかった。でも今は、ハードでダークで...包帯巻いたり血糊つけたり...そういうバンドたくさんいるよね。僕らはそういう道筋を作ったんだろうな。」 ──黒夢結成時のコンセプトである、ポジティブパンク/ゴスの影響下にある退廃的でダークな世界観とハードコアのようにアグレッシブでハードなサウンド。これこそが、多くのV系ファンが思い浮かべる「名古屋系といえばダークでハードなバンド」というぼんやりとしたイメージの正体であり、その後のフォロワーがオリジナル名古屋系から継承した伝統様式なのだ。 また名古屋系代表格バンドの当時のインタビューにはポジパンというワードが頻繁に登場する。DEAD END、ビート色が影を潜めゴスに傾倒しはじめた頃のBUCK-TICK、バウハウスなどの4ADレーベルのアーティストからの影響を公言する者も多かった。さらに名古屋系はポジティブパンク/ゴスシーンとの親和性も高く、Lucifer Luscious Violenoueやオートモッドとも親交がある。そのオートモッドの中心人物でありポジパンの帝王と呼ばれるジュネは「黒夢はデスメタルがポジパンやっているような印象を受けた。」「ROUAGE、あれはポジパンだ。」という発言を残している。こういったことからも、彼らがポジティブパンク/ゴスから直接的にしろ間接的にしろ強い影響を受けている事がわかるだろう。そう、名古屋系とはV系シーンの中でもポジティブパンク/ゴスに特化したスタイルを指すのである。


それでは、そのポジティブパンク/ゴスを基点に、オリジナル名古屋系第一次世代とポスト名古屋系第二次世代の中で特に純血度の高いバンドを時系列に沿っていくつか紹介していく。その他の主な名古屋系バンドについてはこちらの記事で言及しているので併せてチェックして欲しい。

1990年に真宮(後にOf-J)を中心に結成。そのサウンドは、まさしく名古屋系プロトタイプ。今井寿(BUCK-TICK)を彷彿とさせるニューウェイビーな真宮のギターと、清春のボーカルが相性抜群。TABOO以降のBUCK-TICK+初期黒夢と言えばわかりやすいだろうか。解散する1991年には初期黒夢のサウンドにかなり近くなっている。清春は、真宮にオートモッドなどのダークな要素があるバンドを教えてもらったと話している。名古屋系、はじまりのバンドである。

1991年GARNET解散後、黒夢が結成される。グロテスクな世界観、シアトリカルな演出。清春と人時が掲げたポジパン+ハードコアというコンセプトに、臣のジャパメタ仕込みのギターが重なり、ヴィジュアル系の既存スタイルを破壊した。瞬く間にシーンの最前線まで躍り出た黒夢は多くのフォロワーを産み、"名古屋系"と"コテ系"という2大派生ジャンルを作り出す。いわゆる"黒†夢"はメジャーデビュー作「迷える百合達」をもって完結する。

1993年Laputa結成。初期こそ黒夢の影響を強く感じるサウンドだったが、Silver-RoseのギタリストKouichiの加入により独自のスタイルを確立する。名古屋系バンドでは珍しく正統派HR/HMの素養を持っており、安定したサウンドを築いている。akiのコブシの効いたヴォーカリゼイション、Kouichiのハイレベルな作曲センス/ギターセンス。彼らのサウンドスタイルを引き継いだバンドも多く、名古屋系の礎を築いたバンドといえよう。メジャーデビュー後は、バンドサウンドと打ち込みが融合したスタイルへ変貌していく。

1994年にROUAGEが1stアルバム「ROUAGE」をリリースをする。ポジパン濃度の高いそのサウンドは、オートモッドのジュネに「ROUAGEはポジパンだ」と言わしめたほどである。それまでの王道ヴィジュアル系サウンドに強めのポジパン要素を融合させたスタイルは、これぞ名古屋系というものに仕上がっている。ベーシストのKAIKI(ex.Silver-Rose)脱退後、メジャー進出。メジャーデビュー後には、ポジパン要素は徐々に影を潜めていく。

1994年にFANATIC◇CRISISが1stアルバム「太陽の虜」をリリースする。ポジパンを基盤にしたサウンドに、石月努のポップセンスが映える。シンセギターを使用しており、どこかBUCK-TICKを連想させる雰囲気もある。「太陽の虜」までの彼らは、まさしくダークヴィジュアル。名古屋系そのものである。「MASK」以降は、大衆性に重きを置いたスタイルへ移行していく。

Vo.真/Gt.Hideno/Ba.准那/Dr.KYOのラインナップが揃ったメリゴが本格始動、1996年にデモテープ「放送禁止の死んだふりをする潔癖症の実験体と箱の中の毒入りショートケーキ」をリリースする。80年代アンダーグラウンドシーンのアブノーマルでアヴァンギャルドな空気を一点に凝縮させたような、オリジナル度/変態度の高い音楽性は当時のシーンに衝撃を与えた。黒夢と共に"名古屋系"や"コテ系"などに大きな影響を与えている。その影響力はDir en grey、蜉蝣、ゼロ年代以降のバンドにも及ぶ。真が描く猟奇的な恋愛、サディズムやマゾヒズムなどをモチーフにした性的倒錯の世界、 ドラッグソングともとれる精神異常の世界、 早すぎたバンドマンとメンヘラ少女のラブソング、転調や変拍子を多用したサウンドスタイル。彼らはそれを"PSYCHEDELIC DRUGS"と称していた。准那とKYO脱退後、コマーシャリズムを一切排除した、よりコアな方向へ向かっていく。

1996年、後のLamiel維那/Rukaとlynch.玲央が在籍していたLustairが頭角を現す。そして、新潟からは名古屋系の伝統様式を継承するバンドD'elsquelがマキシシングル「Life Trees」をリリース。新潟出身ながら名古屋系からの系譜を感じるバンドで、ポジパンを基盤にしたダークヴィジュアル系スタイルを持っていた。1997年にLamiel、翌年1998年にはkeinが本格始動を開始。維那と眞呼、次世代名古屋系ヒーローの誕生である。また同じ頃、D'elsquelと同郷であるbabysitterがシーンに登場、彼らもまた、Laputaなどの影響を軸に変拍子なども取り入れたハイレベルな名古屋系スタイルを持ったバンドであった。1999年、kein/Lamielに続きPoisonous Doll、メリゴ直系Systerなどが現れる。ただし、この辺りは当時の"ヴィジュアル系モダンヘヴィネス化現象"も含んでおり、ゼロ年代ニュースクール名古屋系に繋がっていく側面も垣間見せている。2000年、Matina(ヴィジュアル系インディーズレーベル)からex.AZALEAのメンバーを中心に結成されたサリーが始動開始。コテ系のイメージが強いMatina出身のバンドであったが名古屋系の血筋を感じるサウンドで、清春チックなボーカルとテクニカルなギターが冴え渡る良質な名古屋系バンドであった。

  • ポジパン/ゴスの流れを汲む黒服を基調とした衣装とメイク、あくまでモノトーン、コテ系/近年のゴスのように華美になりすぎない
  • ポジパン/ゴスの流れを汲むシアトリカルな演出(マネキン/十字架/棺/血糊/包帯など)
  • アーティスト写真、アートワーク、コンセプトにはストーリー性をもったアートチックなものが多い
  • 世界観遵守(MC控えめ/ヤンキーノリ控えめ/ファンとの一体感を求めすぎない)
  • ファンの雰囲気もポジパン/トランス系の流れを汲む文学少年少女寄り

ヴィジュアル系ファンでも一見すると全く区別がつかない名古屋系とコテ系だが、そこには決定的な違いが存在する。コテ系とはヴィジュアル系の王道要素を盛りまくる、言わば足し算の美学である。それに対して名古屋系は、ルーツを重んじ伝統とバランスを保つ引き算の美学なのである。同じ黒服でもコテ系はドロドロでコテコテの黒であり、名古屋系はシックで落ち着いた黒なのだ。しかしながら、コテ系と呼ばれるバンドにも名古屋系の要素をもったバンド、名古屋系と呼ばれるバンドにもコテ系の要素をもったバンドが存在し、正確に分類するのは不可能である。 また余談ではあるが、名古屋系ファンには「ルーツを重んじ伝統様式を継承する名古屋系こそがヴィジュアル系」「保守的であることがヴィジュアル系」という原理主義的な思想を持つ者も存在する。

(写真左:名古屋系 Laputa 写真右:コテ系 Madeth gray'll)

音楽の歴史はカウンターに対するカウンターの繰り返しで成り立ってきた。ヴィジュアル系も例外ではない。既存ジャンルのカウンターから生まれたヴィジュアル系だが、それがカルチャーとして成立すれば主流が生まれるのは当然のことであろう。先に述べた清春の発言を思い出して欲しい。「D'ERLANGER、ZI:KILLのコピーのような...そんなバンドが名古屋にはたくさんいた。そういうのじゃなくて、アサイラムとかZOAとかガスタンクみたいなバンドがやりたかった。シアトリカルでハードでダークなバンドがやりたかった。」「当時多かった英語とかのいかにもなバンド名は付けたくなかった。メイクしてニコニコして、お客さんに媚びているようなのとは全く別のものがやりたかったんだ。」 ──当時のヴィジュアル系シーンの主流、それに迎合することへの反抗心、名古屋系とはそういったカウンター精神により生まれた新たな潮流だったのだ。

TEXT:管理人

2018年4月1日


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